玉田まゆ子公式サイト

2018年10月1日 | カテゴリ:ブログ , 玉田まゆ子のぷれしゃすな日々

「失われた時を求めて」に手を出して「意志的記憶」と「無意志的記憶」を知ってしまったお話。

心理療法家の玉田まゆ子です。
10月は一番好きな月、私と母のお誕生日月でもあります!
10月はじめの日がオフ日でしたので、
二度寝したり、昼寝したり、
愛犬マウロアと見つめあったりして過ごしました。
 

 
そこで、最近、趣味の読書を楽しんでいなかったので、
なんとなく「久しぶりに文学でも読みますか!」と
手を出してしまったのが、
マルセル・プルーストの「失われた時を求めて」です。
 
「20世紀文学の金字塔」と言われていて、
いつか読もうと思っていましたが、
作品について多くを知りませんでした。
 

 
書き出しが素晴らしかったので、
軽い気持ちで読み始めましたら、
何と長い作品なのでしょう!
果たして読み終えることができるのでしょうか?
 
読み始めて、これは長いぞと気付いて、
調べてみましたら、
プルーストが1913年〜27年にかけて書いた小説とのことで、
「いやいやそれは長いはずですね!」と、
後先考えずに読み始めた自分自身に苦笑。
 
登場人物が多く、名前がややこしいという理由で、
ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」さえ、
読むのを避けておけばいいと思っていた私が甘かった。
 
さて、なぜ読もうと思ったのかといいますと、
「紅茶とマドレーヌ」のくだりに完全に魅かれてしまいました。
ここに書かれている感覚が催眠療法的でもあり、
私も良く経験する好きな感覚だったからです。

 
さらに、普段感覚でしか認識していなかった
「意志的記憶」と「無意志的記憶」についても
知りたい気持ちが抑えられなくなりました。

この本がきっかけで「意志的記憶」と「無意志的記憶」を
深く認識することになったのです。
 
今、知的欲求が満たされいい気分です。
最後まで読むかどうかはわかりませんが…。
(*^_^*)では、また!
 
以下、時間デザインに過不足なく適切に書かれていましたのでより一部引用させていただきます。
 
『失われた時を求めて』といえば必ず引用されるのが、「紅茶とマドレーヌ」の挿話だ。寒い冬の日に家に帰ってきた主人公は、母が出してくれた熱い紅茶にマドレーヌを浸して口に含んだ瞬間、「素晴らしい快感に襲われ、何か貴重な本質で満たされ」たと感じる。最初はそれが何だかわからなかったが、やがて、幼いときに親戚の叔母が紅茶か菩提樹のハーブティーに浸して出してくれたマドレーヌの味だと気づく。それと同時に生まれ育った町の思い出が「一気に、全面的に、生きた姿で」立ち現れてきたのだった。
 
プルーストによると、記憶には「意志的記憶」と「無意志的記憶」がある。「意志的記憶」とは想起することによってよみがえる記憶のことで、昨日の夜に食べたものだったり、幼い頃に見た映画だったり、受験勉強で覚えた日本史の年号だったりする。これらは知性によって切り取られた体験の断片であり、いま身のまわりにあるものとは違って、過去に属している。私たちは思いを巡らすことでこの記憶にアクセスできるが、それはやがてまた、過去へと埋没していく。
 
これに対して「無意志的記憶」はとつぜん向こうからやってくる記憶のことで、味やにおいといった感覚的なものがそのきっかけとなる。「無意志的記憶」の特徴は、それが「死んだ過去」ではなく、「生きた思い出」として立ち現れるということだろう。なぜなら、味やにおいといった感覚は、言葉や映像に比べるとあいまいなものではあるが、いま生きているこの身体に生じるものだからだ。つまり、「無意志的記憶」とは知性のはたらきによって振り返るものではなく、感覚を引き金として「これから」語られる物語なのだ。
 
この「無意志的記憶」を呼び覚ます感覚として、プルーストは味やにおいに加えて音(音楽)をあげている。